ookumanekoのブログ

言葉を味わう 文学の楽しみ

小説『教習所にて』

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「わたしあの先生苦手なんですー。怖くって、緊張しちゃうんですー」

ぽっちゃりした女の子が言った。

中年の女が返した。

「あの神経質そうな若い先生ね。怖いよねー。リラックスできる先生に当たると、ラッキーって、思っちゃう」

「わたしもおじさんの先生だと、安心できるんですー」

なるほど、それでわたしに話しかけて、癒しを求めているのだな……、と、中年の女は思った。

「この間も、『みきわめ』で落っこちちゃって……」

ぽっちゃりした女の子は、朝カウンターで追加代金を支払っていた。
技能教習が規定時間に終わらずに、補習を受けたのだ。中年の女は横目でそれを見ながら、自分も追加代金を支払った。痛い金額が財布から消えていった。

「親にお金を借りてこの教習所に通っているから、これ以上、落ちたくないんですー」

今どきの子はそんな気遣いをしなければならないのか……、バブル期に二十代を過ごした中年の女は、苦労性な女の子に同情した。
教習を先に進めたくても、先生が恐くて思うように進めないのだ。

「みんないっしょだよ。わたしも、みきわめの先生が怖くて、どうしようかと思っちゃっ
た。」

中年の女はそう笑って女の子を慰めたが、女の怖いものは別にあった。

 
「Kさん、あなた何やってるんですか?」

「何を怖がっているんですか?」

女はそう言われ続けていた。

「あなたの問題はメンタル面」

公安委員会公認の教習所ではその指導のもと、適性検査を行う。
女は運動機能には何の問題もなかったものの、メンタ
ル面では、問題を抱えていた。
 
十数年前、今の場所に移り住んですぐ、家の目の前で大きな交通事故が起きた。車同士の正面衝突だ。
女は当事者ではない。その第一通報者だ。
ドカンという大きな音で目が覚め、窓に駆け寄った。そして救急に、次に警察に電話をした。

「あのあの、家の前で車同士の事故が起きました」

「ああそう、住所と名前をどうぞ」

女は自分の住所が上手く思い出せない。電話を持つ手も震える。かたや、電話の向こうでは警官がのんきな声で話している。
女は焦り、うわずった声で叫んだ。

「早く、早くしてください!運転手がまだ車の中なんです」

「車の中で動かないんです!」


その事故は皆が思ったよりずっと悲惨な事故だった。
片方の運転者は車の中に閉じ込められ、呼吸が停止した状態だった。国道のど真ん中で起きた事故。交通量の多い幹線道路は封鎖され、レスキュー隊が出動した。車のドアが切り取られ、ようやく運転者が引きずり出された時には、事故発生から数時間が経っていた。
そして運転者は酸素マスクをされ、担架で運ばれていった。
女はその一部始終を家の窓から見守っていた。

女は教習所に来てハンドルを握るまで、自分が車に対して恐怖感を抱いていることさえ知らなかった。

しかし、ここに来てしまったのだ。引き返すことは出来ないし、足踏みすることも許されない。


中年の女は気を取り直して女の子に言った。

「先生方は事故を起こす運転者を作ってはならない、そういう使命感を持っているのよ」

「プロ意識で厳しいのよ」

「きっとそうよ」

女の子は内気そうに笑いうなずいた。



 
 
 
photo by AkinoAnn