ookumanekoのブログ

言葉を味わう 文学の楽しみ

翻訳まちがい

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とても不思議なのだが、

私は、強烈な無神論者の父の元に育ちながら、

ごく幼い頃、わずか二年間だけ、

一日も欠かさず教会に通っていた。

なんのことはない。幼稚園が教会だったというだけなのだが。

今は特にめずらしいことではない。

しかし、当時は、田舎にしてはめずらしいことだった。

プ○テ○タ○ト教会があり、幼稚園が併設されていた。

小さな木造の教会が入り口すぐにあり、奥にさらに小さな幼稚園があった。

園長先生は常に詰め襟の黒いロングドレスを着ていて、

私はふつうの格好をしているのを見たことがなかった。

マリア様は覚えていない。

十字架はあったような気がする。

祭壇があり、毎日ろうそくの灯をともす儀式が行われた。

儀式の最中退屈で、早く終わらないかな~、と思ったのを覚えている。

そこで特に、宗教的な教育を受けたということはない。

母が知り合いの教員から勧められるままに、私と兄弟を入園させたのだ。

父は激怒し、母を罵っていた。

私は、父が亡くなる数日前まで、そんなこともすっかり忘れいた。

父が亡くなる数日前、あることがあって、幼い頃の宗教体験を思い出した。


しかして、現在の私はというと、

神は信じるが、全ての宗教を信じたくない心境だ。

人を救うのが宗教のはずなのに、猜疑心を植え付けているように見えるのだ。

それは、どこ国の何宗であってもそうだ。

元々の、創始者の言葉はそれなりに理解できるし、正しいのではないかと思う。

しかし、時代が下り、それが弟子たち、賛同者たちに伝えられればられるほど。

全く別物に変化してしまうように見える。

まるで翻訳間違いのように。