ookumanekoのブログ

言葉を味わう 文学の楽しみ

悪魔憑きと呼ばれた少年 ヘルマン・ヘッセ

今週のお題「わたしの自由研究」

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プロファイル

 

 

貧乏宣教師の家に、次男坊として生を受ける。

 

北方バルト移民の血筋。

 

混沌を持って生まれたような、統合性のない性質。

 

頭が良く、難関校に受かるには受かるのだが、長続きしたためしがない。

 

神学校から逃げ出し、両親の依頼で『悪魔払い』の儀式を受ける。

 

仕事も、就いてはすぐに辞めそれをくり返す。

 

精神を病む。自殺未遂。分裂気味の心。

 

 

 

出会い

 

 

1962年にヘッセが亡くなり、惜しまれ再評価された時代にわたしは生まれた。

 

初めて書店に足を運び、自分の財布で買った本が、ヘルマン・ヘッセであった。

 

当時、書店に行き、書棚に手を伸ばせば、当たり前のようにヘッセの小説が

 

ひと島を作っていた。

 

そして、本なんて読んだこともない、田舎の中学生が、無作為に選んだ本が

 

デミアン』だった。

 

 

 

デミアン

 

 

あらすじ

 

デモンとエンジェルをその名に持つ、不思議な少年デミアン』と

主人公との出会いを描く。

 

主題

 

“うちなる神と悪魔の戦い”

 

 

 

(わたしの読書感想文は、小学生の時からたった一行で終わってしまうので、

いつも先生に憎まれた。笑)

 

 

 

 

 

 

 

芥川龍之介『地獄変』

夏休みの読書感想文 2(暗黒編)

 苦手な方はスルーでお願いします。

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写実をその画風とする天才絵師、良秀。

しかし、

その卑しい容貌と傲慢な性格。更には常軌を逸した制作方法で、

皆に疎まれ蔑まれていた。

 

かたや、日の出の勢い、権力の頂点にいた堀川の大殿。

大殿は良秀を試すかのように、地獄変相図の屏風絵の制作を依頼するのだが……。

 

 

 

 

この作品は、表現方法こそ文章によるものだが、

 

確かに絵画的であると言わざるを得ない。

 

絢爛豪華な極彩色の世界だ。

 

 

作者は目に見えたものを、写し取っていたかのようだ。

 

人はそれを『想像力』と呼ぶが、そのような一般的な並のレベルでは、

 

これほど凄まじいものが描けるとは思えない。

 

いわゆる『共感覚』を思わせる描写が、芥川の作品にはいくつか見受けられるように思う。

 

つまり『炎』と一文字紙に書けば、

 

そのペン先からめらめらと赤い炎が生まれ出て、作者自身の身を焼き付くす。

 

 

 

燃え盛る炎の中で、断末魔の苦しみに身悶える女房。

 

その姿に我が意を得たりと、立ち尽くす画家の姿は、まさに作者自身だ。

 

 

ある種突き抜けた高揚感に支配される、恐ろしくも美しいクライマックスシーン。

 

画家は皆に蔑まれていたが、ある場では、大殿よりも他の誰よりも

 

高尚な位置にいた。

 

芸術という舞台の上では。

 

 

 

 

 

 

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夏休みの読書感想文

夏目漱石『門』 黎明の真の闇の中で

 

 

前期三部作『三四郎』『それから』『門』 読了。

物語は連綿と続く。

 

 

三四郎

大学入学のために上京した青年。親友や恩師、様々な人に出会い成長していく。

そして愛する女性が出来、想いを告げるが……。ほろ苦い青春物語。

 

 

『それから』

久方ぶりに再会した友人夫妻は、不幸な影を背負っていた。

かつて、当の主人公が、親友の妹をこの友人に勧め、二人を結婚させたのだ。

彼女を愛しているにも関わらず……。

 

 

『門』

よんどころない過去を持つ夫婦が、罪悪感の闇に怯えながらも、慎ましく、

お互いを思いやりながら暮らす話。

 

 

妻が、夜明け前の真の闇の中で、物音に怯え、夜明けを待つシーンがある。

真の暗闇に放り出されたことのある人ならば、

この気持ちが分かろうというものだ。

心細く情けなく、自分はこうも弱かったかと、思い知らされ、打ちのめされる。

 

しかし、彼女を救ったのは、神や仏ではなく、

常日頃わずらいの種であるところの、隣近所、世間の生活音そのものであった。

 

外の闇ではなく、内なる闇を抱え込むことは、難儀なことだ。

良かれ悪しかれ、外の世界の実存在が、黎明のひとすじの灯りとなって、

内なる闇を遠ざけたのだ。

 




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ヤーフの生き様

スウィフト『ガリバー旅行記』レビュー。
 

 

 

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船乗りのガリバーは、難破してたどり着いた小人の国や巨人国で、
 
親切にされたり、見世物にされたり、
 
殺されそうになりながら、
 
なんとか生き延びて帰国し、
 
性懲りも無くまた新しい航海に出かけます。
 
 
 
 
 

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しかし、そこで自分という存在、人間というもの。
 
それを根本から覆す国に行き着きます。
 
 
それは高貴な『馬』が支配する国。
 
 
ガリバーは馬に共感し、崇拝します。
 
 
 
しかし、その国には、もう一種類の動物がいました。
 
 
それが、『ヤーフ』です。
 
 
彼らは、野卑で醜く、欲望を満たすためだけに生きている、野人でした。
 
 
ガリバーは彼らを嫌い、
 
 
高貴な馬と共に生きることを切望するのですが…。
 
 
悲しいかな、遂には。
 
 
自分の本性が『ヤーフ』であることを知るのです。
 
 
 
 
 
 
アンチテーゼ。
 
私のテーマでもあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あ、そうそう、『ヤーフ』って、
 
原語で『Yahoo』って書くみたいですよ。
 
 
 
 
 
 
どこかで見たことありますね。あはは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

デュ・モーリア『林檎の木』

「こうしてふたりは、心を通いあわせることなく、別々の世界で暮らしていた。……」
 
どこにでもいる夫婦。
無理解。感謝の不在。倦怠。
それらの悪しき環境下で、習慣化し永遠に続くかに見える生活の儀式。
 
随分前に、『レベッカ』(ヒッチコックの映画『レベッカ』の原作)
を読んだ時には、特に感銘も受けなかったんですが。
この作家、良い物は良いですね。
この他に、『東風』『鳥』が好きです。
 
 
この世界で愛だけが実体のあるもので、
 
それ以外は幻(幽霊)だとしたらどうでしょう。
 
(愛は幻で、それ以外は実体がある。という認識の世界で)
 
愛だけが実体がある。
 
だからこそ実を結ぶのだ。
 
 
 
デュ・モーリア『林檎の木』からの妄想。
(務台夏子 訳)
 
 
 
 

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Ross G. Strachan Photography
 
 

 

 

デュ・モーリア『鳥』

突然鳥の大群が人を襲い出す。
ヒッチコックの映画『鳥』が有名ですが、
原作には、映画では触れられていなかった、なぜ鳥が急に狂ったか?
その理由が語られています。(務台夏子訳 創元推理文庫
 
冒頭、主人公が海鳥を観察するシーン。
 
主人公はいつも以上に、何かに駆られている鳥たちに気がつく。
「…彼らは大群となって半島に飛来し、落ち着きなく、不安げに動きまわり、
消耗していく。
空を駆けめぐり、旋回していたかと思うと、掘り返されたばかりの豊かな土に降りて餌をついばみ、
そうして食べているときですら空腹も食欲も感じていないようだ。
そして彼らは、ふたたび落ち着きなく空へと駆り立てられていく」
 
「彼ら(春の鳥)の生(繁殖)のリズムは遅れを許さない」
(しかし冬の鳥は)同じ衝動に駆り立てられながらも、それが成就することはなく、
「冬がもうじき来る。(渡りをしない)連中の多くが死ぬことになる。
ちょうど寿命が来る前から死を恐れる人間が、
懸命に働いたり愚行に走ったりするのと同じように、
連中もじっとしていられなくなるんだ」
 
そして冷たく乾いた東風と共に、突然訪れた黒い冬、盛り上がる潮流。
 
「やがて彼らもあの飛翔への衝動に捉えられ、叫び、鳴き、わめきながら…
急げ、もっと速く、さあ、行けーでもどこへ?なんのために」
 
 
 

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(英語)セキュリティなど万全の環境でご覧ください。
 
 

 

映画『ねじれた家』の家は『家』ではない?

映画を観て、色々分からない所があったので、原作を読んでみました。

アガサ・クリスティ本人が最高傑作と呼んだそうですが?
果たして?

 

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タイトル『ねじれた家』のねじれ具合。
大元の大富豪の生き様。
肝心のそこが、映画では詳しく描かれていないように思ったからです。

(が、原作も詳しくは触れられていないので、ここからは妄想)

イギリスの伝統的な領主、あるいは貴族、(当時の)
そういった、生まれつきの持てる人たちから比べると、
外国人のこの富豪は、裸一貫、なりふり構わず、遠慮がなく、型破りで人ったらし。
その手腕ひとつで無一文から大金持ちにのし上がった。
イギリスの伝統から見ると、ねじれている、曲がっている、ということでしょうか?

しかし、そんな男にも唯一手に入らないものがあった。
それは、病床の妻を真摯に看病していた義姉。
彼女は気高く美しく知性と行動力を兼ね備えた、
男気ある英国の貴婦人。まさに伝統的なイギリスを体現した女性。
つまり、この姉はイギリスを擬人化した人物で、
富豪は言うまでもなく外国人、あるいは外国を表している。
そうすると、『ねじれた家』の『家』とは、英国ということになる。
ひとつ屋根の下に、組み伏せることのできない伝統と、革新と力が捻れた形で同居している。
そしてその不自然な捻れが次第に熱を帯び、悲劇の発端になりうる。

クリスティは、自らの国の状況を、このように評価したんじゃないでしょうか?
最高傑作と自認する理由が、わたしにはこれ以外思いつきませんでした。

こういったことを踏まえて、映画をもう一度見返してみますと、

 

グレン・クローズの、勇ましい美しさ。納得です。
外国人の富豪、という設定だけで、イギリス人には自明のイメージがあるのかもしれません。
この二人を軸に、捻れて戻すことができない人間関係。金と欲。
そして、真犯人。
もっとも弱い所に、捻れの力が加わり、
取り返しのつかない悲劇が起こってしまう。

ほぼ原作に忠実に作られていて、再現性もよく、期待を裏切らない出来でした。
★★★★

 

 

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