梶井基次郎『海 断片』
Tony Hisgett
未だかつて疲労にも憂愁にも汚されたことのない純粋に明色の海なんだ。
遊覧客や病人の眼に触れ過ぎて甘ったるいポートワインのようになってしまった海ではない。
酢っぱくって渋くって泡の立つ葡萄酒のような、コクの強い、野蕃な海なんだ。
波のしぶきが降って来る。腹を 抉(え)ぐるような海藻の匂いがする。
そのプツプツした空気、野獣のような匂い、大気へというよりも海へ射し込んで来るような明らかな光線――
ああ今僕はとうてい落ちついてそれらのことを語ることができない。
何故といって、そのヴィジョンはいつも僕を悩ましながら、
ごく稀なまったく思いもつかない瞬間にしか顕われて来ないんだから。
それは岩のような現実が突然に 劈開(へきかい)してその劈開面をチラッと見せてくれるような瞬間だ。