ookumanekoのブログ

言葉を味わう 文学の楽しみ

『しるこ』芥川龍之介

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震災以來の東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶つてしまつた。その代はりにどこもカツフエだらけである。
僕等はもう廣小路の「常盤(ときわ)」にあの椀わんになみなみと盛つた「おきな」を味はふことは出來ない。これは僕等下戸仲間の爲には少なからぬ損失である。のみならず僕等の東京の爲めにもやはり少なからぬ損失である。
 それも「常盤」の「しるこ」に匹敵するほどの珈琲を飮ませるカツフエでもあれば、まだ僕等は仕合せであらう。が、かう云ふ珈琲を飮むことも現在ではちよつと不可能である。僕はその爲にも「しるこ」屋のないことを情ないことの一つに數へざるを得ない。
「しるこ」は西洋料理や支那料理と一しよに東京の「しるこ」を第一としてゐる。(或ひは「してゐた」と言はなければならぬ。)しかもまだ紅毛人たちは「しるこ」の味を知つてゐない。もし一度知つたとすれば、「しるこ」もまた或ひは麻雀のやうに世界を風靡しないとも限らないのである。帝國ホテルや精養軒のマネエヂヤア諸君は何かの機會に紅毛人たちにも一椀の「しるこ」をすすめて見るがよい。彼等は天ぷらを愛するやうに「しるこ」をも必らず――愛するかどうかは多少の疑問はあるにもせよ、兎(と)に角(かく)一應はすすめて見る價値のあることだけは確かであらう。
 僕は今もペンを持つたまま、はるかにニユウヨオクの或るクラブに紅毛人の男女が七八人、一椀の「しるこ」を啜(すゝ)りながら、チヤアリ、チヤプリンの離婚問題か何かを話してゐる光景を想像してゐる。それから又パリの或カツフエにやはり紅毛人の畫家(がか)がひとり、一椀の「しるこ」を啜りながら、――こんな想像をすることは閑人(かんじん)の仕事に相違ない。しかしあの逞ましいムツソリニも一椀の「しるこ」を啜りながら、天下の大勢を考へてゐるのは兎に角想像するだけでも愉快であらう。