ookumanekoのブログ

言葉を味わう 文学の楽しみ

『丸之内点景』小津安二郎

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相似形的二重露出
 曇天の、丸ビルは大きな水さうに似てゐる。
 中に、無数の目高が泳いでゐる。
    ▽
 丸ビルは、とても大きい愚鈍な顔をしてゐる。
 殊に、夜が明けてから、朝のラツシユ・アワーになる迄の数時間の表情と来ては、早発性痴ほうよだれだ。よだれは敷石をぬらしてゐる。
    ▽
 ドーナツツに穴のある様に、もつと現実的にいつて、便所の防臭剤に穴のある様に、丸ビルの内側にも、通風と採光の穴があいてゐる。
 丸ビル、八階――
 窓、窓、窓、窓、東向き――
 一階、コーヒーを沸してゐる。
 二階、女店員とコンパクト。
 三階、ポマード頭。
 四階、ヨーヨーをしてゐる。
 五階、ヨーヨーをしてゐる。これはニウトンの戸惑ひをした表情だ。
 六階、丁字形定規が動いてゐる。
 七階、空室。
 八階、窓硝子をふいてゐる。陸のカンカン虫。
    ▽
 窓、窓、窓、窓、南向き――
 一階、飯びつが乾してある。
 二階、狸が狐を背負つてゐる。美容院。
 三階、タイプライターをたゝいてゐる。
 四階、手巾が乾してある。
 五階、泣いて文書く人もある。これはうそだ。給仕が靴を磨いてゐる。
 六階、盛に、お辞儀の連発だ。あれは借金の言訳をしてゐる。
 七階、途端に、サイレンが鳴つた。
 午砲のサイレンに変つたのは偶然ではない。これはまだしも空き腹に、応へない。
    ▽
 この界わいの、ビルデングのボイラーたきは大方、らんちうを、その屋上に飼つてゐる。
 暖かくなつて、ボイラーの方が暇になると一方は、食ひが立つて急がしくなる。
    ▽
 極めて早朝、この界わいを、神田あたりの店員が、皆ユニホームを着て、皆自転車に乗つて、日比谷あたりに野球の練習に通るのを見かけたことがある。
 これは僕の見た都会の情景の中での、好ましいものの一つである。
                                                                                                     


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cactusbeetroot
   




カンカン虫=船舶・煙突・ボイラーなどにへばりついて、ハンマーでたたいてさび落としをする作業員の俗称。

狸が狐を背負つてゐる=狐の襟巻きをしたご婦人。

午砲(正午を知らせる大砲)は空きっ腹にこたえた…らしい。