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『小金井の櫻』大町桂月 ニ

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TANAKA juuyou(田中十洋)





二列の櫻樹の外には、麥畑あり、茶畑あり。雜木林たちつゞき、茅屋點綴す。
その間、到る處、よしず張りの茶店を構へ、茶煙輕く上がる處、
小杜の禪榻ならで、赤毛布しける腰掛臺、まばゆきばかりに立ちならび、
客を呼ぶ少婦の聲さへなまめきたり。思ひしに違はで、花のさかりは過ぎたれど、
そよと吹く風にも、もろく散るさま、なか/\にあはれなり。
秩父根おろしの春風、名殘を雜木林にとゞめて、櫻には強く吹かざれど、
その雜木林の欠くる處は、風の勢つよく、花片一齊に散亂し、
空に知られぬ香雪、紛々として面を撲ち、水に落ちて、水は忽ち錦繍となる。
げに花のさかり過ぎならでは、見るを得ざる光景とぞ喜びし。
左岸の樹疎らなる處、秩父の連山孱顏をあらはし、右岸には、
箱根足柄の山々手に取る如く見えて、その上の、八朶の芙蓉峯(富士山)、
倒(さかさ)まに白扇を懸け、花にひときはの趣を添へぬ。
小金井の中心と思しき小金井橋畔、杖をとゞめて、青巾の飜れる柏屋に投ず。
二層樓、櫻花に埋もれて、前も左右も皆花なり。欄によりて酒をくみつゝ顧盻す。四面の花何ぞ美なるや。
風ふけば、ひら/\と散る花片、時に杯中に落ち來たるも、心ありげなり。
屋後の木立に和鳴する幽禽の聲、耳だつばかりにて、樓下を過ぎ行く遊人は多からず。
隨つて雜沓せず。物乞ふ三味線の聲、寂寥を破るも、亦惡しからず。
一杯又一杯、酔顏終に花と映發するに至りて、樓を下りぬ。