ookumanekoのブログ

言葉を味わう 文学の楽しみ

寺田寅彦『難破船遊び』

パリに滞在中下宿の人達がある夜集まって遊んでいたとき
「難破船」の遊び(ノーフラージュ)をやろうと云い出した者があった。

先ずはじめに銘々の持ち物を何か一つずつ担保 gage として提供させる。
それから一人「船長」がきめられる。次にテーブルを囲んだ人々の
環を伝わって卓の下でこそこそと品物が廻される。口々に

 「La mer est calme, la mer est calme.」(好い凪だ)

と云っている。次に何と云ったか忘れたが、とにかく

「海が荒れ出した」

という意味の言葉を繰返している。その間にも断えず皆が卓の下で
次々に品物を渡しているような真似をしている、その人の環のどこかを
実際に品物が移動しているのである。
船長がいきなり

「ノーフラージュ!」(難船)

と怒鳴ると、移動がぴたりと止まるのである。
自分も一度運悪くこの難船にぶつかって、何か(ケルクショーズ)
をしなければならないことになった。


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その隠し芸の思案に苦しんでいたら隣席の若いドイツ人がドイツ語でこっそり

「いちばん年とったダーメ(婦人)に花を捧げたまえ」

と教えてくれた。
幸いにドイツ語はこの席の誰にも通じなかったのである。
そこで私は立って窓枠にのせてあった草花の鉢をもって
片隅に始めから黙って坐っていた半白の老寡婦の前に進み、
うやうやしくそれを捧げる真似をしたら皆が喜んでブラボーを叫んだり
手を拍いたりした。
その時主婦のルコック夫人が甲高い声を張上げて

「Elle a rougi ! elle a rougi ! 」(赤くなった)

と叫んだ。私はそのときの主婦の灰汁(あく)の強過ぎるパリジェンヌぶりに
軽い反感を覚えないではいられなかったのであった。




寺田寅彦『追憶の冬夜』編集あり




写真 Ghita Katz Olsen クリスマスローズ