樋口一葉『月かげ』
むら雲すこし有るもよし、無きもよし、
みがき立てたるやうの月のかげに尺八の 音(ね)の聞えたる、
上手ならばいとをかしかるべし、
三味(さみ)も同じこと、 琴は 西片町あたりの垣根ごしに聞たるが、
いと良き月に弾く人のかげも見まほしく、
物語めきて ゆかしかりし
さゝやかなる庭の 池水に
ゆられて見ゆる月かげ物言ふやうにて、
手すりめきたる 処に寄りて久しう見入るれば、
はじめは浮きたるやうなりしも次第に底ふかく、
この池の深さいくばくとも 測られぬ 心地に 成て、
月は そのそこの 底のいと深くに住むらん物のやうに思はれぬ、
久しうありて 仰(あふ)ぎ見るに空なる月と水のかげと
いづれを 誠(まこと)のかたちとも思はれず、物ぐるほしけれ
明(あけ)ぬれば月は空に 還へりて 名残りもとゞめぬを。