やまぶし
「山伏に出会ったら殺されても仕方がない。」
子どもの頃、わたしはそう教えられた。
子どもの頃、わたしはそう教えられた。
私の生まれ育った地域は、東北地方の三方を山に囲まれた盆地。
毎日の生活で、なだらかな美しい稜線を臨むことがごく当たり前だった。
東京に住むようになって、ある日ふと、見渡しても、景色に山がないことに気がついた。
自分たちを見守っている存在のないことに畏れを覚えた。
この山には、現代でも修験者がいる。
子どもの頃の教えは、どんな意味だったのかと、今ごろになって考える。
『殺される』とは穏やかではない。
過酷な修行によって、悟りに達するというストイックなものだ。
人々を苦しみから救うために、まさに命を捧げるのだ。
もちろん今では禁じられている。
これが果たして、修行と呼べるものなのか、素人の私には分からない。
東南アジアに旅行した時、
街中で、オレンジ色の袈裟を着た修行僧をよく見かけた。
托鉢をしていたり、博物館で観覧している少年僧たちもいた。
観光客の女性は、彼らと目を合わせないようにと注意を受けた。
『心を乱してはならない。』
そうだ。
『穢れを祓い修行中の身の彼らにとって、街や女は誘惑に満ちている邪悪なもの。』
なのだろう。
表題の山伏。
山岳修行は秘技なので、俗世の者は見てはならない、という戒めと、
このような意味も含んでいるのかもしれない。
(photo by サカタノタネさん)