『雪の夜の話』島崎藤村
工藤隆蔵
亡き川越の老母がまだ娘ざかりの頃、
松雪庵という茶の師匠の内弟子として、あるところへ茶を立てに行った
(という雪の夜の話はわたしの家に残っている)
この師匠の前身は十年も諸国行脚の旅に送った尼僧であったそうだが、
茶人として松雪庵を継いでからも、生涯つつましく暮して居られた婦人のようで、
雪の夜にも炉の火の絶えない知人の許へ
茶を立てに行くことを年若な弟子に命じたものであったという。
髪を銀杏返しか何かに結い、昔風の質素な風俗で、
白い綿のようなやつがしきりに降って来る中を急いで行った時の人は、
おそらく熱い風雅の思いに足袋の濡れるのをも忘れたであろう。
まだ若いさかりの娘の足は、おそらく踏んで行く夜の雪のために燃えたであろう。