『老熟先生』国木田独歩
(かつて熱中したワーズワースの詩集を、すっかり忘れていた先生)
…主人公の命運のために三行の涙をそそいだ自分はいつしかまた
彼を誘うた浮世の力に誘われたのだ。
そして今も今、いと誇り顔に「われは老熟せり」と自ら許している。
アア老熟! 別に不思議はない、
“Man descends into the Vale of years.”
『人は歳月の谷間へと下る』
『人は歳月の谷間へと下る』
どうせこれが人の運命(おさだまり)だろう、
Hartwig HKD
その証拠には自分の友人の中でも随分自分と同じく、自然を愛し、
自然を友として高き感情の中に住んでいた者もあったが、
今では立派な実際家になって、他人(ひと)のうわさをすれば必ず
『彼奴(きゃつ)は常識(コモンセンス)が乏しい』とか、
『あれは事務家だえらいところがある』など評し、
以前 (もと)の話が出ると赤い顔をして、
『あの時はお互いにまだ若かった』と頭をかくではないか。
たまさか引き出して見たところで何がわかろう。
ワーズワースもこういう事務家や老熟先生にわかるようには
歌わなかったに違いない。
ところで自分免許のこの老熟先生も実はさすがにまるきり老熟し得ないと見えて、
実際界の事がうまく行かず、このごろは家にばかり引きこもっていて
多く世間と交わらない。
その結果でもあろうかワーズワース詩集までが一週間に一、二度ぐらいは
机の上に置かれるようになった。
(国木田独歩『小春』 編集あり)